『坊っちゃん』の冒頭はあまりに有名であるが,そこに高度なレトリックの駆使されていることは,ほどんど気づかれていないようである。『坊っちゃん』の冒頭では,ユーモアと軽妙な語り口が印象的であるが,漱石はその中で,主人公の性格描写を巧みに行っている。漱石の巧みさは,直接的な説明を一切せずに,語りの内容,あるいは語り口を性格描写の手法としていることであり,彼はそれを高度に計算されたレトリックによって実行している。本稿は,漱石のレトリックがどのようなものであったか,その典型の一つを明らかにする事例研究であるが,本稿には修辞学的分析の事例としてもう一つの意義を持たせている。それは,「現在感」というレトリックの概念を使用したテキスト分析の事例という意義である。漱石は『坊っちゃん』の冒頭において,「現在感」の変則的な操作によって語り手の性格を描写するという,ある意味「きわどい」修辞技巧を使っている。「現在感」はレトリックの重要概念の一つであるが,日本ではあまり知られていない概念であり,それをテキスト分析に利用した研究となると,筆者による二・三の論文を除けば,日本でそのような研究は行われていないようである。そのため,本稿ではまず「現在感」の概説を行った上で,「現在感」の用法とその表現効果を中心に,『坊っちゃん』冒頭の修辞学的な分析を行いたい。結果として,本稿は2章と3章との二つに分かれた論文構成を取ることになるが,ご了承いただきたい。