本稿は、拙稿「能《杜若》の構想と中世の草木成仏説」(『中世文学』第68号、2023年6月)の補遺として、拙稿で明らかにした中世の草木成仏説の実相を踏まえて、世阿弥作の能《高砂》と《采女》の二曲の詞章について近現代の諸注とは異なる解釈を試みたものである。
万物を包摂する真理が分節されるのではなく、その全体を挙げて一つ一つの事物になるという論理構造を踏まえれば、《高砂》の「草木土砂、風声水音まで、万物の籠もる心あり」は、素直に「草木土砂、風声水音」に至るまで、あらゆるものに万物が内包されていると読むべきであり、《采女》の「もとより人々同じ仏性なり」は、本来的に人々は同じ一つの仏性(真理)そのものである、と解釈すべきであることを指摘する。いずれも夙に『謡抄』が示していた読みである。