「当たり前」を相対化する中高数学の教材論 : 多項式の展開公式,√𝑎 の長さの線分の作図,比例の定義の3つの題材を通じて
中等教育研究紀要 /広島大学附属福山中・高等学校 64 巻
25-36 頁
2024-04-01 発行
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Fukuyama-ChutoKyoiku-KenkyuKiyo_64_25.pdf
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種類 :
全文
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タイトル ( jpn ) |
「当たり前」を相対化する中高数学の教材論 : 多項式の展開公式,√𝑎 の長さの線分の作図,比例の定義の3つの題材を通じて
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作成者 | |
収録物名 |
中等教育研究紀要 /広島大学附属福山中・高等学校
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巻 | 64 |
開始ページ | 25 |
終了ページ | 36 |
ページ数 | 12 |
収録物識別子 |
[PISSN] 0916-7919
[NCID] AN00146014
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抄録 |
本稿では,中学校・高等学校の数学の教科書上の「当たり前」に目を向け,その点を相対化していく教材論,すなわち,その教師にとっての「当たり前」が生徒達にとっての「当たり前」ではないかもしれない可能性を考える教材論を展開する。結果,[1] 多項式の展開については,(𝑎 + 𝑏)2 の展開公式に着目し,生徒達の目から見て,𝑎2 + 2𝑎𝑏 + 𝑏2 と 𝑎2 + 𝑏2 + 2𝑎𝑏 のどちらの順番で書いても拡張の方向性として遜色なく見え得ること,[2] √𝑎 の長さの線分の作図については,長さ𝑎 の線分のみならず長さ1 の線分が与えられることの数学的価値が,生徒達の目からは見えないこと,[3] 比例の定義については,小学校流の定義から中学校流の定義に更新する必要性が生徒達には感じづらいこと,を指摘し,3 教材のいずれについても,大局的な視点(教師にとっての「数学としての当たり前」) と局所的な視点(生徒達にとっての「生活経験としての当たり前」) のズレを論じることができた。数学の教師は,日々目の前の生徒達の様子を注意深く観察しながら,教師にとっての「数学としての当たり前」と生徒達にとっての「生活経験としての当たり前」のズレの調整をしなければならない。
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内容記述 |
本稿の教材論は,筆者が,岡山大学 学術研究院教育学域 講師 石橋 一昴氏に,同大学の学部生向けの講義のゲスト・ティーチャーとしてお招きいただいた際の講義内容を発展させたものである。
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言語 |
日本語
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資源タイプ | 紀要論文 |
出版者 |
広島大学附属福山中・高等学校
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発行日 | 2024-04-01 |
出版タイプ | Version of Record(出版社版。早期公開を含む) |
アクセス権 | オープンアクセス |
助成機関名 |
日本学術振興会
Japan Society for the Promotion of Science
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助成機関識別子 |
[Crossref Funder] https://doi.org/10.13039/501100001691
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研究課題名 |
推論主義の視座から見た数学の授業場面における規範性の源泉
推論主義の視座から見た数学の授業場面における規範性の源泉
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研究課題番号 |
21K13587
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