「失いつづけたすべてのものの打ち上げられる場所」と「行くべきところ」との間で : 文学教育の「転回」と「希望」のために <特集 : 「文学教育の転回と希望」を受けて>

日本文学 56 巻 8 号 53-62 頁 2007-08-10 発行
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JapaneseLiterature_56-8_53.pdf 519 KB 種類 : 全文
タイトル ( jpn )
「失いつづけたすべてのものの打ち上げられる場所」と「行くべきところ」との間で : 文学教育の「転回」と「希望」のために <特集 : 「文学教育の転回と希望」を受けて>
タイトル ( eng )
Between "Where All Our Lost Things Are Cast Away" and "Where We Should Be" : For the "Turn" and "Prospect" of the Teaching of Literature <Special Issue : Response to "The Turn and Possibility of Literary Teaching">
作成者
収録物名
日本文学
56
8
開始ページ 53
終了ページ 62
抄録
なぜか。「テクストと読者との相互作用過程」において読者のうちに「作品」がどのように生み出されるかということが文学教育においては重要である。それらの半分は書き手の差し出したものに、そして半分は読者の抱いているものに左右される。

わたくしたちは書き手の残した記述をもとにして、そこに描かれている〈表徴〉を捉え、自らの読みをつくりあげる。読者であるわたくしたちが、幾たびも読み返すことによって、その捉え方は変わっていく。それはある意味でテクストの送り手を「裏切る」過程なのかもしれない。そうやってテクストの送り手を「裏切る」ことが、わたくしたちの「作品」を生み出し、読みをつくっていく営みでもある。「テクスト」はわたくしの「失いつづけたすべてのもの」を指示対象とする。そして、わたくしがわたくしのなかに構成したそれを読むということが、わたくしたちの「行くべきところ」を探る営みとなるのである。それが、須貝千里の言う、「あらゆる言葉」が「対象そのもの」との「隔絶に晒されている」事態を生き延びる道であり、一筋の「希望」であると考える。
In the teaching of literature, it is important to know the process of interaction in which we as readers are producing our own "text" in the act of reading. We are reading, interpreting, and all the while revising the text. As long as reading is a sort of creating something new, we may even undermine the author's intention. Probably through such procedure we try to reconstruct "what we have lost" in order to find "where we should be." This seems to be the only way to justify the act of reading in what Senri Sugai calls the "essential dissociation between language and its referents."
NDC分類
教育 [ 370 ]
言語
日本語
資源タイプ 学術雑誌論文
出版者
日本文学協会
発行日 2007-08-10
出版タイプ Version of Record(出版社版。早期公開を含む)
アクセス権 オープンアクセス
収録物識別子
[ISSN] 0386-9903
[NCID] AN00197092